それに対して濃姫は、一瞬「えっ」と驚いたような反応をする。
少なからず狼狽(ろうばい)しているようだった。
「千代山様、姫様に対してそのような仰せは…」
と、三保野は相手の発言を窘(たしな)めるような素振りを見せたが、あえて強く止めようとはしなかった。
今朝方の噂の話の時も、そして今も、少しの厳しさも見せない濃姫のお慈への対応に、三保野も少々訝しく思っていたのだ。
「お慈様を左様にお庇(かば)いせねばならぬような、何か特別な理由でもあるのですか?」
千代山が改めて訊くと、濃姫は悩ましげに眉を歪めた後、ゆっくりと首を左右に振った。
「───左様な理由など、ある訳がございませぬ」
同日の夕刻。
本丸御殿に築かれた高櫓の最上階に、濃姫と信長の、仲睦まじげな夫婦の姿があった。
腰の高さまである朱塗りの欄干の前に佇(たたず)み、二人は寄り添い合うようにして、目の前に広がる景色を、沁々とした面持ちで眺めていた。
遠くの山々や森。
麓に建ち並ぶ御殿。清洲から移った家臣や民たちの家々。
道や田んぼ、小川に至るまで、全てが暮れゆく橙色(ときいろ)の陽に照らされて、燦然と輝いていた。
美しく、厳(おごそ)かとも思えるその景色を眺めながら
「何と美しいこと…。小牧山の城からは絶景が見えるとは聞いておりましたが、これ程とは」
濃姫は感動の溜め息を漏らした。
信長も同感そうに、うむと頷く。
「確かに美しき眺めじゃ。 ──なれど、稲葉山城からの眺めに比べたら差ほどのものでもあるまい?」
「さぁ、どうでございましょうね。稲葉山城からの景色は言うまでもなく素晴らしきものにございますが、それぞれ趣(おもむき)が異なります故」
「どう違うのだ?」
「稲葉山の山頂から見える景色は、ひと言で申せば壮大。櫓の上から見下ろせば、それこそ美濃一国がまるごと、
己の手の内にあるような錯覚すら覚えまする。対して小牧山からの景色は、自然と、その中で暮らす人々が上手く調和した、繊細な美しさがございます」
信長は真面目くさった拝聴の表情で聞いていたが、やがて軽く鼻息をたてると
「そちの話だけではよう分からぬな。直に見てみぬことには。 ……ほれ!あちらを見てみよ濃。微かじゃが、稲葉山の城がここからでも見えるであろう!?」
美濃の方角を指差しながら、得意気な顔をして言った。
濃姫は眩(まぶ)しげに西陽を片手で遮りながら、彼方に目を凝らした。
「まぁ、ほんに…!」
確かに微かではあるが、姫の肉眼でも十分に、かつての居城を確認することが出来た。
「こちらからあちらの城が見えるということは、あちらからもこちらの城が見えるということ。
かように目の届く場所に敵の城が建ったのじゃ。龍興め、今頃は驚きに目を見開き、冷や汗をかいておるであろうな」
信長の口元の堅固な肉に、ちらりと笑窪があらわれた。
「よく仰(おっしゃ)いまする。美濃勢に対して、心理的に揺さぶりをかける目的もあって、ここに城を築いたのでございましょう?」
「それを申すな。微かな優越感が台無しになるではないか」
「それはそれは、大変に失礼を致しました」
濃姫がおざなりに頭を下げると、夫婦は顔を見合せ、ふふっと笑い合った。
「──して、奥殿への引っ越しは滞りなく済んだのか?」
「はい。粗方のことは千代山殿がして下さっておりました故、後は持って参った衣装や装飾品の類いなどを運び入れたくらいで、