桜司郎の口からは思わずその言葉が盛れた。
この学問所は幕府の教育機関であり、昌平坂学問所の名でよく知られている。
大量の書物を片手に、同世代やそれより若い侍達が桜司郎の横を通り門を潜って行った。
──来たことなんて無い筈なのに、fue植髮 どうしてこの様にも胸が締め付けられるんだろう。
何とも言えない思いを胸に、暫く んでいるとガサリと何かを落としたような鈍い音が聞こえた。
足元には小ぶりの大根が転がってくる。それに気付いた桜司郎は屈んで拾い上げた。
落とし主を見遣ると若い女性が目を丸くして、まるで幽霊を見たように此方を見ている。
その下には解けた風呂敷と野菜が落ちていた。
桜司郎は近付くと、それに手を伸ばす。
「おう、のすけ……にい、さん」
女性はそう呟くと、その場に崩れるように座り込んだ。
それに驚いた桜司郎は女性の肩を支える。
「あのッ、大丈夫ですか。何処か具合でも悪いですか」
その問い掛けに、女性は答えるどころか今にも泣き出しそうな程に顔を歪めた。
それにギョッとしながらも、桜司郎は周りを見ながら何とか女性を立ち上がらせる。
「生きていたのですか。今まで何処におられたのです!私です、です…ッ」
大きな目からはポロポロと涙がとめどなく流れ落ちた。勿論面識のない桜司郎は戸惑いながらも首を横に振る。
「その、恐らく人違いではないですか……?私は"おうのすけ"さんという方ではありません」
そう言えば、"歌"と名乗る女性は明らかに落胆の色を滲ませた。涙を拭うと、深々と頭を下げる。
「も、申し訳ございませぬ。人違いでございましたか。お恥ずかしゅうございます……。その、貴方様が知人によう似てまして」
「他人の空似という奴ですかね。気にしていませんよ。では、これで」
桜司郎はそう言うと、何処か後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、笑みを浮かべて去ろうとした。
だが、その袖を歌が引っ張る。
「あ、あの。本当に、私のことは知りませんか。御生まれはどちらに……?」
余程似ているのだろうか、歌は諦めきれないといった様子だった。桜司郎は自分に記憶が無いことを伝える。すると、歌は未だ潤んだ瞳で桜司郎を見詰めた。
「記憶が……。そのような事があるのですね。お可哀相に……。そうだ、お時間があれば我が家に来て頂けませんか。母も驚きます故。此方です」
歌はそう言うと、返事も聞かずに先に歩き出す。置いていかれた桜司郎は考える間もなく、その後を着いて行った。このせっかちで天然気質な女性がどうにも赤の他人と思えなかったのだ。 歌について東に向かって歩いていくと、やがて小さな敷地の屋敷が集中するように建ち並んでいた。そこは、将軍の警護を担うという。
「我が家はこちらです。狭くて申し訳のうございますが……。少々お待ち頂けますか」
思わず着いて来てしまったが、良かったのだろうかと思いつつ桜司郎は辺りを見渡した。
近くには三味線掘と呼ばれる堀があった。上野のから忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、木材や野菜、砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来している。「そんなにも私は、その桜之丞さんに似ていますか……?」
桜司郎の問い掛けに歌は何度も頷いた。琴は桜司郎の右手に置かれた薄緑を見ると、口を開く。
「桜之丞もそのお差し料を持っておりました。確か、形見としてお藤さんが貰い受けたと認識してましたが……」